花の魔法使い マリーベル

English: Floral Magician Mary Bell (Hana no Mahoutsukai Mary Bell)
Hong Kong (Cantonese): 俏皮幻法小花仙
Taiwan (Mandarin): 俏皮幻法小花仙
China (Mandarin): 俏皮小花仙 栖兰山雪的BLOG
Korean: 꽃의 마법사 마리벨 (꽃의천사 메리벨)
Italian: Mary Bell
Polish: Wróżka z Krainy Kwiatów
Arabic: مغامرات نغم
Thai: แม่มดน้อย แมรี่เบลล์ (แมรี่เบลล์ = แมรี่เบล = แมรี่ เบล = mary bell)

2009-12-09 花の魔法使いマリーベル DVD-BOX KIBA-91688 というのが今日発売日だったと。 正直、売れるのか、なんでこのタイミングでまた出たのか不思議なのですが…。 ていうか、この事実を中国語の掲示板で教わったというていたらく。 花の魔法使い、で検索しても、日本語ではこの件が出ない;; 寂しいw しかし、このサイトなんて全然更新してなかったけど、 うかがかまりべのほうは毎週月曜日に欠かさずずっと更新中。毎週月曜日ってのがこのごに及んでセンチメンタル。。

2008-11-06 リンクしていいのか分からないけれど…

志田 ただし(マリーベルの主な作画監督の一人=広田正志)先生のサイトで、 マリーベルのページはとっくの昔になくなったと思っていたのですが、 直接URLを入れると、ページが残っていたのです。もし未見のかたがおられましたら、ぜひ。。。
http://www.masarap.net/gal/68/mb1.htm
内容はよく知っていて画像も大昔に保存してあったけれど、現在も残っていたのが意外な驚きでした。 え、そんなの常識? 今ごろ気付くなんてのんびりすぎ? 笑。 まちばりあかねさんとか「マリーベル研究所」とかのファンのサイトはどんどん消滅しているのに、 実際の仕事をしたかたのこうしたのが残っているところが50万歳のリズムでしょうか(意味不明w)。 広田先生は(昔の絵は今から見るといろいろ気になったりするという意味で)、 あまり思い出したくないとおっしゃっていたことがあった記憶があるのですが、 「思い出したくない」と言うということは逆に言えば、ある意味、 恥ずかしくも懐かしい大きな思い出、ということなのかもしれませんね・・・。 まあかくいう自分自身、小さいころ作品自体が純粋に好きだっただけで、 製作者がどうこうとかのマニアックなことはよく知らないのですがw

今、いちばんファン活動が盛んなのは、もう日本ではないんですね。 スレがいくつも立つマリーベル専用フォーラムは日本にはないんですね。 これだけ作品が多い、 星の数ほど新作がある、アニメの本家本元・日本では仕方ないことかもしれませんが、 忘れたころにまた見てほしいです。

2008-03-27 サニーベルの緯度 (2)

7話の後ろの予告(8話の予告)でピッチーは「カルガモ」と限定している。 ところが47話でそれが冬鳥として描かれている。 日本では「カルガモ」は渡り鳥でないが、北海道では夏鳥という。 けれど日本の緯度では冬鳥ではない。「カルガモ」が「冬に」帰ってくる冬鳥としたら、相当な高緯度になってしまう…。 これは物語、ということで、あまり現実的に追求する場所ではなさそうだ…。

2008-02-12 サニーベルの緯度

サニーベルは南欧風であると言われることがある。 厳密に言うと、郵便配達員のかばんに〒のマークがあることから、サニーベルは日本であるともいえる。 車が左右のどちらかを走るか、交番の存在、父母の呼称(夫をパパ、妻をママと呼ぶ)、 そのほか日本がベースになっている部分は当然多々ある。 車線の左右が違っていたら「交通安全」の教育ビデオに使えなかった、という言い方もできる。

設定としては、サニーベルは日本ではない。 ボビーが自分の父親が「日本にも行ったことがある」と自慢することから明らかだ。 またジジベルが12月23日に出発しながら、 サニーベルから北極に引き返すとかなり時間がかかり、一晩ではサンタクロースの仕事ができなくなる、 としていることから、サニーベルは北極のそばではない。 しかし雪も降るし、冬は温暖とは言えないので、あまり南でないのも明らかだ。

サニーベルが岡山付近と似ていると考えたこともある。 海沿いで背後はすぐ山、というのは、確かに制作局のある瀬戸内地方の風土から、間接的に影響を受けているのかな、 と思えないでもない。

2007-07-21 台湾版配音俏皮小花仙变身(台湾版・マリーベル変身シーン)

http://www.tudou.com/programs/view/UYqC4-ltAEY/

mbtw.flv

2007-06-09 マリーベルの夢

マリーベルが友達のように出てくる夢を見たことがあるような気がするが、よく覚えていない。 『花の魔法使いマリーベル』という番組が再放送される、という夢なら、本編終了後、一度見た。 最終回のあと、とても悲しくて、再放送してほしかったのだ。

(1) マリーベルが出てくる美しい夢を見たことを夢日記のように記しているファンも実際にいる。 一人はマレーシアの方で、2006年2月にこう語った。

わたしは昨夜、夢を見ました…
わたしは祖父の家のそばの草原にいるのですが、雪が積もっているのです…不思議なことに[※マレーシアなので]。
わたしは9歳に戻っていて、友達がいないので泣いていました。
するとマリーベルが来てくれて、言ったのです。
「茂みの中でわたしがいないか見てごらんなさい。あなたはわたしを見つけるわ。
子どもたちの顔のなかにわたしを探してごらんなさい。あなたはわたしを見るわ。
心の中で一生懸命、わたしの記憶を思い出してごらんなさい。わたしに想われていることが分かるから…」
わたしは泣きながら目を覚ましました。

彼女は、後期エンディング(想われている)のあるエピソードを見る直前にこの夢を見たのです。 不思議ですね。

(2) もう一人は中国のかたで、マリーベル掲示板に、2007年6月8日(現地時間)あった書き込みです。

昨夜わたしは、こんな物語の夢を見ました。
場所は翠緑のサニーベルの街から、金色の浜辺へと変わります。
そこにマリーベル、ユーリ、ケン、リボンがやって来ます。
浜辺は砂漠のようなのですが、なぜか大きなキノコが生えています。[※31話の妖精のカーニバルですね]
マリーベルは、あれは願いをかなえてくれるキノコだと説明します。
ユーリとケンの願いごとは「幸せなとき、悲しいとき、つらいとき、いつもマリーベルがそばにいてくれますように」。
リボンはジュリアのことしか考えません。
アニメで見たことのあるシーンも登場しますが、自分がまだ見ていないはずの回のものもあり
「どうなっているんだろう」と不思議に思います。
さらに感動したのはマリーベルの願い事です。
残念なことに、感激が強過ぎて、目が覚めたときマリーベルが具体的に何を言ったのか完全に忘れてしまっていました。
それから彼らは円形の「砂の泉」に行き、そこで「泳ぐ」のです。
急に砂が吹き上げてリボンは驚き、みんな笑います。
物語の最後にはテレビ版のEDではなく「私!マリーベル」を歌います。
[※「♪さびしいときにはマリーベル~さあ勇気を出して~素直な心はほかの誰にもまねのできない宝物」
45話挿入歌、「フェニックスのかぎ」の主題歌]
ところがなぜか次回予告がなくて急にコマーシャルがあるので、腹が立ち、そこで目が覚めました。

(1) も (2) も、夢は後期EDに変わる30話前後と関係している内容ですね。 やはりあのあたりはマリーベルの一つの「核心」なのでしょう、夢にまで現れるほど、無意識にも強い影響を与える…。 30話の「おまたせ」、31話の「ビビアンさん、あなたのファンなんです」「♪みんなでかけよう優しい声を~」のあたりは、 ある種の「オーラ」さえ感じますもの。

2007-04-11 イタリア語版OPがYouTubeにあります。

http://www.youtube.com/watch?v=A1PJt3IjOho

歌詞とやや適当な(参考程度)訳を書いておきます。 「メーリーメーリー、メーリベル、ミラボランテ、メーリベール」くらいは聞き取れるのではないでしょうか(笑) 追記: biondissima は最上級「最もブロンドの」だが最上級のニュアンスをうまく訳せないのでとりあえず放置。

追記の2: 「最もブロンドの」は「非常にブロンドの」「非常に美人の」要するに「とても美しい・かわいい」ということっぽい。

MARY BELL
di A. Valeri Manera - V. Chiaravalle
ed. RTI Music - Milano


Una fatina biondissima e senza età
ブロンドの永遠の妖精
che ha in se la primavera
心に春を持っている
come una gialla farfalla tra i fiori va leggera
黄色いちょうが花の中を軽やかに舞うように
vola qua e là.
ほら彼女も駆け回る
Sa di magia e fantasia
魔法と夢のように
si accoccola tra i petali
花びらのなかにしゃがむ
e poi vola via, poi vola via.
そして走り回る飛び回る

(テレビ放送では以下省略して※に飛びます。
ここに書いた歌詞はイタリアのサントラにあるものです)
Una bambina biondissima e magica
ブロンドの魔法の子

che vive nei giardini
ガーデンに住んでいて
riesce da lì ad avverare bei sogni dei bambini
子供の夢をかなえてくれる
che felicità!
なんて幸せ
Sa di magia e fantasia
魔法と夢のように
è l'amica più fatata che ci sia.
いちばん素敵なお友達
Mary, Mary, Mary Bell meravigliosa Mary Bell
マリー、マリー、マリーベル。とっても素敵マリーベル。
che risvegli la primavera e colori la nostra verità.
春を呼び覚まし、現実を美しく彩る。
Mary, Mary, Mary Bell mirabolante Mary Bell
マリー、マリー、マリーベル。とっても不思議マリーベル。
più leggera di una chimera
幻よりももっと軽やかな
che profumi di gioia e di felicità.
喜びと幸せの香り。

(※テレビ放送ではここに続きます)
Una fatina biondissima e senza età
ブロンドの永遠の妖精
che ha in se la primavera
心に春を持っている
come una gialla farfalla tra i fiori va leggera
黄色いちょうが花の中を軽やかに舞うように
vola qua e là.
ほら彼女も駆け回る
Sa di magia e fantasia
魔法と夢のように
è l'amica più fatata che ci sia.
いちばん素敵なお友達

Mary, Mary, Mary Bell meravigliosa Mary Bell
マリー、マリー、マリーベル。とっても素敵マリーベル。
che risvegli la primavera e colori la nostra verità.
春を呼び覚まし、現実を美しく彩る。
Mary, Mary, Mary Bell mirabolante Mary Bell
マリー、マリー、マリーベル。とっても不思議マリーベル。
più leggera di una chimera
幻よりももっと軽やかな
che profumi di gioia e di felicità.
喜びと幸せの香り。

\c\0\s[5]こんな寒い日には、\w4モスバーガーのホットココアね♪\w8\w8\s[0]\n

\1脳内でカラースプレー(トッピングチョコ)を補完すれば、\w8マリーベルココアになるよ♪\w8

\0\n\s[0]モスバーガーのMマークも脳内変換しよう。\n

\w8\w8\w8\s[5]「マリーベルココアよ、めしあがれ」\w8\w8\s[0]\e

(中国本土で)マリーベルの放送中、父が持って帰ってきたナスの中にタンバリンそっくりなのがあって、 数日はそれを隠してこっそり遊んだが、結局、ナスは食われるはめに(涙)...某ファン掲示板2006年10月のカキコより

『花の魔法使いマリーベル』は、もともとは子ど向けに作られた日本のアニメ。 登場人物たちはマリーベル(小さな女の子の姿をした魔法使い)や妖精たちと楽しい時を過ごす。 『となりのトトロ』で演出助手を努めた遠藤徹哉 が監督し、 日本で最も傑出したアニメーターの一人・千羽由利子らの作画監督が、高品質の作画を実現した。

50話のエピソードは最初、日本で1992年から93年に放送された。 香港、韓国、イタリア、台湾、中国本土、ポーランド、アラビア語圏でも放送されている。

この作品は、他の「魔法少女」系アニメと比べて、低年齢層を対象としている。 たいていの「魔法少女」は小中学生であるが、本作の主人公にあたるマリーベルは5歳児くらいに見えるし、 登場人物も未就学児か、せいぜい小学二年生くらいまでの年齢に見える。 具体的な年齢は明示されていないが、ケンについてマリーベルは「5歳くらいの」と言う場面があるし、 ボビーのバースデイケーキにはろうそくが5本あった。

公称的「本来」の視聴者である5~8歳くらいの子どもたちには、かなり人気があったようで、 ぴえろ・葦プロのいわゆる第二次魔法少女で映画化されているのは、実質的に本作だけだし、 のみならず、本作は防災ビデオにまで使われている。モモが玩具の売り上げなどの問題で打ち切りがあったことと対照させると、 本作品は、あくまで比較的にだが、順調であったようだ。

しかしながら、もう一つのターゲットである「アニメ・マニア」の人たちの間では、それほど人気があったとは言えない。 低年齢向きとして敬遠されたのだ。 当時のパソコン通信(23:44:46 1992/02/10)AAAでの書き込みが状況をうまく表している。 『マリーベルはたしかに絵もきれいだしかわいいし私の好きな声優はほとんどでてるし 内容も問題無いのですが、決定的な欠陥が一つ。「俺はガキには用はない」』 —— すなわち、 作画レベルが高く、キャラデザも良く、声優も驚くほど素晴らしいのだが、 明らかに低年齢向きである。これは同時期の同じ葦プロの海モモと比較するときは、誰でも必ず指摘することだ。 筆者は「アニメ・マニア」でなく、子どもの立場で本作と出会っているのだが、 マリーベルを高く評価する少数の熱烈なアニメ・ファンが存在することも事実であり、 この人々は「子ども向けに徹し、オタクにこびない作り方」について、逆に肯定的に語る。 マリーベルが好きなアニメオタクは、通例、その純粋性を高く評価しており、 従ってその人自身も純粋志向であることが多い。 その一方で、本作が特に低年齢を対象としていることから、 「マリーベルが好きなオタク」には、 割合としては少数ながら、 逆に「特に極端な」幼女愛者が含まれていることも事実として指摘しなければならない。 この事実については、マリーベルという作品自体にも、責任がある。 本作は、オタクにこびない・ファンサービスなどとは縁遠い純粋な作風であるが、 誤解を招く原因となるシーンが少なくないのも事実である。 例を挙げればOP映像のマリーベルの飛行シーンの一部、 変身シーン、ミキちゃん、など。この問題については、別に詳しく説明するが、 マリーベルは決して、ひわいな作品ではなく、万一そういうものを求めて本作を見る人がいれば、 がっかりするだけだろう。 一般のアニメファンには「ガキには用はない」と一蹴されてしまうような「たわいない」作品なのである。 これは、ポルノビデオが好きな大人が、マリーポピンズやディズニー映画に満足できないのと、ある程度まで似ている。 ただ、マリーベルはディズニー映画ほど、人工的・人為的に「無菌的純粋培養」ではなく、 さまざまなあやを持っている作品なのである。

マリーベルは非戦隊型・魔法少女の一つの完成型であり、マリーベルと比較するとき、 先行する魔法少女たちはある意味において、不完全・不安定・短期的な存在に見える。 すなわち、マリーベルは、ネイティブ魔法少女であり、人間世界と完全に共存し、最終話でも帰ってしまわない。 さらに、彼女は魔法を秘密にせず、変身シーンという様式美を継承しているものの、 実際には、変身しなくても、当たり前のように即座に魔法が使える。 50万歳という年齢設定も、彼女が人類の誕生から滅亡まで、ずっと人間とともにある普遍的なものであることに関連している。 アニメ・ファンの中には、マリーベルを評価しつつ、それをさらに越えていく素晴らしい魔法少女の誕生を願った者もあった。 しかし、バブル崩壊もあってと言うべきか、「純粋」な魔法少女はマリーベルが「最終解答」となり、 それ以降は、セーラームーンとその亜種、すなわち「戦隊型」魔法少女が主流となった。 少子化の現代では、ベビーブームの世代のときと違い、 子どもだけをターゲットとしたアニメの存在自体も難しくなっており、 多くの作品は、大きなお友達の存在を事実上、前提として作られている。 これは実は、マリーベルと同世代のぴえろ系についても言えることであり、 OVAが出ている作品はオタクの支持があった(言い換えればオタクの財布をあてにして作られた)面がある。 これだけ完成度が高いのにOVAがなくVHSさえ完結せず、他方において、夏休みまんがまつり用に映画化されたり、 子ども向けの防災映画に使われているマリーベルは、建前としてはこれこそ正統・本来の姿のはずなのだが、 現実的には、かなり珍しいタイプの作品となっている。

注: 他のぴえろや葦プロの作品がオタクにこびまくっていたという意味ではなく、それらもやはり少女向けなのだが、 例えばモモのロボット物パロディーのように、普通の女の子にとってはかなり意味不明だがマニアには大受けするような、 そういう要素が他作品には、結構あったと言える。マリーベルも火炎放射器を出したりときどき謎なことをするし、 ホットドック売りがモモだったり、マニアにしか分からないことをチラッと入れているので、 マリーベル=本当に100%純粋ということは言えない。また制作者の遊び心なのか、マニアの受けを狙っているのか? という問題もあるだろう(結果的には「両方」なのだろうが)。 そのため、あまり、これはこう、あれはああ、と割り切ることができないのが実情であるとはいえ、 モモとマリーベルを比べれば、同じ連続するスペクトルの上に乗っていると言っても、かなり離れた点に両作品は位置する。 下記引用中で「海モモと平行して制作・放映されていましたが、棲み分けは完全に成功したよう」というのは、 そういった意味である。完全に不連続に二分法ですぱっと切れる状態ではないのだが(実際、初代モモからの継承は多い)、 重なり合うわけでもない、と。そして、それは価値(どちらが良いか)の話ではなく、作品の性質のことだ。


雑談コーナー

2006年8月8日 23時 0分。 「花の魔法使いマリーベル DVD-BOX2」がヤフオクに出品された。 ヤフオクに出るのは珍しいことではないのだが、 コメントを読んで考え込んでしまった。 「友人(正しくは友人のご両親)の代理出品です。僕の友人がかなりのアニメ好きなのですが、給料のほとんどをアニメ関連に使ってしまい、家にも生活費を入れない為、ご両親の逆鱗に触れ已む無く処分することになりました。」とても同情して、 落札したうえで、お金は送るがマリーベルはこっそり友人に返すように頼もうとさえ思った。 業者でないファンが、マリーベルの、それもDVD-BOXの2を売るなんて、とんでもない状況だ。 ご両親がいかに怒っているか、この友人が今どんなにつらい気持ちか、想像したり…。 こんなときこそ、マリーベルの花魔法ではないか。 「お金はちゃんと払うけど、送ってくれないでいい。友人にこっそり返してあげて」 面食らうだろうけど、 自分はもう持っているから送ってもらっても仕方ないし。

と思っていたら、8月 9日 15時 50分に出品が取り消されていた。問題の友人のご両親の怒りが解けたのか、 他の出品物で目標額を既に達成したのか、とりあえずマリーベルは売らないで良いことになったらしい。 良かった、良かった。…そう思いたい。もちろん、何かもっと悪いとんでもない事態に発展して、 オークションどころでなくなった可能性もあるのだが…。

マリーベルのファンがマリーベルのDVDのそれもよりにもよってBOX2を売るなんて、どんなに悲痛だろう。 想像するだけでつらいよ・・

履歴とか見ると、上記の理由でいろいろなソフトを出品して、けっこう落札されたようなので、 100万円くらいはゲットできたのかもしれない。それだったら、両親の怒りが解ける可能性もあるよね。 マリーベルの出品をなるべく後回しにしたようで、そこは何となく好感だが、 不可解なのは、何でBOX2を出品するのかだ。どちらかを手放さなければならないとしたら迷わずBOX1を捨てるべきではないか。 この部分は愛が足らない気がするが(笑)最初からBOX2だけを持っているツウ(?)という可能性も…。 まあ、今なら一回手放してもまた買えるチャンスは容易にあるだろう。 とにかく市場が悲惨な状況なので(空モモが今中古しかなくて20万がついているという!)、 何でも買えるうちに買っておくしかない。文明国家の姿ではないよこれ・・・


ちょっと横道 フェニックスの鍵の北京語版VCD

マリーベルの中国語版は3系統あります。香港の広東語版、台湾の北京語版、中国本土の北京語版。 TVシリーズは中国語だけで上記3種類あり、香港版にはファラファラというオリジナルのOPソングまでついています (イタリア語版と韓国語版のマリーベルにもオリジナルのOPがありますが)。 もちろん、正式に放送されたもので、海賊版などではありません。 上記、フェニックスの鍵は台湾で作られたもので一応マンデリン(北京語。北京官話)です。 ちょっとだけ試聴してみたいですか? 中国語版のマリーベル声優では、 本土のHao Linjie(郝琳杰)が人気が高いようです。上記、台湾版のはいまいちかも?


概要

『花の魔法使いマリーベル』(略して『マリーベル』)は本来の意味での魔法少女アニメである。 北米などの若いアニメファンは、戦隊ふうの魔法少女(セーラームーンや東京ミュウミュウ)のことを魔法少女と呼ぶことがあるが、 これは普通の魔法少女アニメ(ミンキーモモやクリーミーマミ)がまだあまり知られていないためである。

各エピソードはオープニング・エンディングなども含めて正味23分半である。

独自性

(1) マリーベルは主人公でなく「手段」である。活躍するのでなく、活躍を目撃される。 視聴者の視点はマリーベルの視点でなく、どこにも固定されていないため、最終的に「物語の舞台」が印象に残る。

通常、視聴者は、主人公の魔法少女に感情移入する。 例えば、ミンキーモモなら「わたしも魔法で、将来なりたいものになりたい」という同一化ができるし、 それは(少なくとも当時の社会における)将来への夢を空想的に実現してくれる(良い意味での「逃避」つまり鼓舞)。 セーラームーンならより積極的に「華麗に変身して世界の悪を正す英雄になる」という構造を持っている。 普通に、自分もあんなことができたらいいなあと思うのだ。

『花の魔法使いマリーベル』は異なる構造を持っている。本質において、マリーベルは魔法少女ではなく、 メアリーポピンズのような“魔法の乳母”である(実際、マリーベルは約50万歳という高齢)。 視聴者がマリーベルと視点を共有することは難しい。 マリーベルの目的は、子どもや大人、人間一般に夢を与えることで、助けること・手伝うことであって、 主役は子どもや大人の人間たちである。

むしろ、視聴者はマリーベルが「面倒を見る」ユーリやケンと視点を共有する。 日本のアニメに詳しい人には「マリーベルはドラえもんで、話を進めるのはのび太」と説明するのが(不正確で雑な説明だが)手っ取り早い。 そして実際に話を進める中心人物たちを「助ける」ものの具体化として、アイテムが存在する。 例外は、マリーベルステッキとマリーベルタンバリンで、これはマリーベル自身のためのアイテム、アイテムを出すためのメタアイテム(四次元ポケット)であるが、それ以外は、基本的にすべて「他人のために使う(他人に使わせる)アイテム」である。

ミンキーモモも人間に夢を与えるテーマなのだが、ミンキーモモが「わたし」(本人)の活躍中心なのに対して、 マリーベルは「あなた」(ユーリやケン、周囲の人間)の体験を中心としている。 優劣の問題ではなく、ちょっと構図が違う。

マリーベルは視聴者にとって「あんなふうになりたいなあ」と同一化する対象というより、 「友達になりたいなあ」という対象なのである。この構図は第一話のユーリとケン「こんなときマリーベルがいてくれたらなあ」、 ローズ「会いたかったわマリーベル」という台詞、 マリーベル「お友達になりましょ」という台詞に既に明確に現れている。つまり、物語としては、 「わたし」である魔法少女がまずありきではなくて、 物語の目撃者がある「わたし」のユーリとケンを登場させて、その「わたし」の前にマリーベルが現れる。 (メアリーポピンズの影響が明らか。) どこに視点があるかに注意すると、モモは基本的にモモ視点だが、マリーベルはマリーベル視点の場面がとても少なく、 視点があちこちに動くことに気づかれるだろう。このことは後述するテーマが求心性(分かりやすさ・明快性)を失いやすいという問題ともつながる。また視聴者の主観的経験としては、視点が固定されておらず、 エピソードが散発的であり、 しかも背景世界のクオリティーが高いため、 マリーベルを見終わったあとで、個々のストーリーや人物もさることながら、 「サニーベル」という街が非常に細かく印象に残るのである。これは、 メアリーポピンズの読者なら誰でも「チェリーレインのバンクスさんの家」が印象に残るのと同じで、 マリーベルでもサニーベルの「フラワーショップ・マリーベル」や丘の上の「フラワーハウス」が印象に残る。 そして人物より場所や世界が印象の前景に来ることで、マリーベルは、 それに夢中になった人に「ノスタルジア」を与え「帰りたい」「あの世界をもう一度」といった言葉で近似できる感覚を発生させる。 他のアニメではあまりない独特の感じである。 基本構造がちょっと違うことで、最終的に大きな印象の違いになっている。 ところが最初の作品世界に入り込む部分ができないと、この最終的印象も理解できないので、 マリーベルのファンとそうでない人には「何がそんなに良いのか」について意思の疎通が難しい面がある。 ファンは「あのほのぼのとした優しい世界」と既に自分が経験しそこの住民となっている「世界」の話をしてしまうのに対して、 ファンでない人は「世界」の外にいるため、「まあマリーベルやユーリの絵はかわいいけど?」といった目で見える部分、 つまり作品世界を外から観察した面に終始してしまう。

(2) 「世界観」が本質の作品であるのに、通常のアニメオタクの作品世界への侵入を明示的に拒否している。 他のほとんどの魔法少女アニメは「本来」の視聴者以外のオタクのファンにも受けることを意識的に狙っている。 これに対して、マリーベルは純粋に3歳から10歳くらいの子どもを対象にしている。 葦プロダクションが同時期に作っていたミンキーモモ(海モモ)とマリーベルを意識的に違った性格の作品にしたのは、 商業上の差別化もあったが、ある種の実験精神もあったと考えられる。言い換えると、 既にモモという(一応)安定した看板があったので、 マリーベルの方はより自由に「趣味っぽく」作ることができた。 (ただし実質的には製作は、葦プロでなく、スタジオジャイアンツが行った。) このようにモモとマリーベルの方向性を別にしたことで、結果的に、

  1. モモの子ども以外のファンは、ほぼすべてオタク。
  2. マリーベルの子ども以外のファンは、数はずっと少ないが、割合としてオタク以外も多い。 メアリーポピンズ、ナルニア、ムーミンのような一般的な(オタク向けでない)児童文学のように楽しむことができるからだ。 モモの方は、そういう楽しみ方をするには、不純過ぎる。
  3. マリーベルの子ども以外のファンで、かつオタクの人は、概して非常にディープ。オタクのメインストリームに普通に受け入れられるモモと違い、 マリーベルはオタクへの迎合度が低いので、 自分の意思で出会い、自分の意思で作品世界を味わえなければ(言い換えれば、適合性がなければ)、 入り込めない世界である。逆に、入り込めてしまうと、それは唯一無二の“完全な世界”なのである。 これに似たことは「ふたご姫」初期の「萌え禁止」監督命令で観察できる。「ふたご姫」は、 「もしマリーベルが一般に迎合していたら、 商業的にどれだけ成功したか、そしてそれと引き換えにどれだけの核心を失ったか」をかいま見せてくれる。 なぜマリーベルがふたごにならずに済んだかは単なる偶然、 バブル経済と不景気の違いという製作環境の違いなのだが…。 また最初から明示的に迎合してくるCCSが、 いかにも口当たりが良いが、マリーベルのようなしみじみとしたノスタルジアを残してくれないことに気づかれるだろう。 それらのアニメは、視聴者を楽しませることを至上目的としており、 作品が終われば(人気がなくなれば)視聴者の関心と同時に作品世界も終わる。 マリーベルは50話の後も視聴者を「無視」して、放送される物語は終わっているのに、 サニーベルの街は平然とどこまでも続いているという、不可解な構造になっている。 マリーベルが帰ってしまわないという点では、本家メアリーポピンズさえ出し抜いている。 言い換えれば、マリーベルは物語的な結論を出していない。 物語的に結末をつけるとすれば、ユーリが大人になって、童話作家になって、「マリーベルの絵本」を描く、 という循環構造なのだが(これでジートが探した時点で、 現存のすべての本を蔵する国立図書館に絵本がなかった伏線も説明できるのだが)、そういうふうに答を出さないで、 割り切れないものとして、いつまでも心の残る説明されない存在が「マリーベルの絵本」であり、 必ずしも技術的には成功していないものの、一応「花の魔法使いマリーベルはマリーベルの絵本だった」というような感じになっている。 演出的に凝るなら、ユーリの回想・現実・空想を渾然一体とさせ、 最終場面で原稿用紙の上にサニーベルの街をクロスフェイドさせ、 物語を執筆している大人のユーリを説明抜きで登場させて、いったん「夢落ち」にして視聴者を「何だこれは物語作家の空想だったのか」という落胆に突き落としてから、ユーリが顔を上げて窓の外を見ると、海の見える丘の上にフラワーハウスが立っていて、 マリーベルが子どもたちと遊んでいる姿が小さく見える(あるいは声が聞こえる)…というようなこともできたのだが、 そういう批評家をうならせるような「しゃらくさい」ことをねらわず、 最後の最後まで児童向けアニメに徹したそのてらいのなさ、 良い意味での職人気質、明快性、単純性がこの作品をいっそう深く、懐かしくしてくれる。 「マリーベルの絵本」の正体が最後まで明かされていないからこそ、われわれは今もこうして、楽しく想像をふくらませることができるのだ。

注: 「マリーベルの絵本」としての「花の魔法使いマリーベル」。 この構造の親和性の良さは、このアニメが毎回「今週はマリーベルはどんな魔法を使うのでしょうか。 さあ、ユーリとケンといっしょに今週のマリーベルの絵本を開いてみましょう」という「額縁のある物語」にできる、 ということから観察できる。カメラが物語世界から常に1レベル引いている。 前述のように、 「活躍するマリーベル」の視点でなく、 マリーベルは「目撃」される。このことは、作品が「マリーベルの絵本」を読む読者の視点に近い、ということとパラレルである。 少なくとも、一度はジェーンとマイケルがユーリとケンに置き換わってしまう「魔法」が明示的に語られている。 けれども、毎週、前回と無関係に新たに話を作るというストレスを脚本家に強いている(これはメアリーポピンズと同一構造)。 そのため、侵略者から地球を守るといった明確なミッションのある作品よりは求心性が弱く、 各話が小粒となって、商業的には一般の好みと合わなくなりやすい。(ムーミンのような成功例もあるので、 不可能ではないが、善と悪がいて地球を守るといった単純な話より、 作話が難しいのは間違いない。ただ、実際の子どもたちは、分かりやすい単純な話より、 マリーベルのような話を楽しむことができるという結論部分は動かない。タイムボカーンシリーズなど、 常に正義が勝つという単純なストーリーが子どもたちから嫌がられていたことから考えると、 セーラームーンはともかく、その後の亜流・戦隊/魔法少女が本当の意味で子どもたちから受容されていたのか疑問が残る。 少なくとも、アニメオタクに迎合した分、 本来の視聴者である子どもたちを無視した度合いが大きい。)

(3) テーマは敵と戦うことでない。主役と「敵」、人間と妖精、現実とファンタジーの共存がテーマである。 敵を打ち負かし撃退するのでなく、結局は仲良くなってしまうのだ。これは30話のビビアンと、最終話のシェルボーが代表的であり、 さらにジートもそうである。この美しくも渋いテーマは、商業的には失敗とも言える。 悪いヤツが出てきた、変身して戦ってやっつけよう、という方が、分かりやすいからだ。 それだけに、マリーベルはディープな作品で、その良さが分かるファンにとっては至高であるが、 一般のオタクにはピンと来ないのである。 地球を守るために戦うといった明確なミッションがないため、ストーリーは柔軟であるものの、 求心力を失いやすい。逆に言えば、各話ごとに、高品質のストーリーが要求され、 多くのアニメがキャラクター中心であるのに対して、マリーベルはストーリー中心である。 世界中心と言っても良い。サニーベルという舞台が非常にていねいに描かれている。 これはトータルでは成功しているが、個々のエピソードについて見ると、技術的に失敗している部分もある。 好みの問題もあるが、いくつかのエピソードはストーリーとしては必ずしも良くできてない。

(4) オペラ的手法もユニークだ。主要登場人物にはすべてライトモチーフがあり、 またいくつもの良いBGMがある。それらの多くは、さらに、歌詞をつけて、ミュージカル的にも使われる。 このアプローチには、映画の「マリー・ポピンズ」からの影響が認められる。 タップダンスの使い方、シンボルタワーの時計塔、港町の風景、犬など多くの要素が「マリー・ポピンズ」に似ている。 「マリー・ポピンズ」への最も明白な参照は、アニメ中に登場する絵本「マリーベルの絵本」の登場人物が、 ジェーンとマイケルであることである。ジェーンとマイケルは「メアリーポピンズ」の主人公である姉と弟で、 『マリーベル』の世界ではユーリとケンに対応する。 そして、もちろん、メアリーポピンズがマリーベルに対応する。 ただし、映画の「マリー・ポピンズ」が小説の映画化であるのに対して、 『マリーベル』は純アニメ(オリジナル・アニメ)だ。原作の小説や漫画にしばられることなく、 柔軟な作劇が可能となる。例えば、マリーベルがオープニングで、画面の中から視聴者に「元気の魔法」をかけるのは、 テレビという媒体ならではで、小説や漫画では表現しにくいだろう。 視聴者のいる現実・物語の舞台であるサニーベルの現実・作中の作品であるマリーベルの絵本の世界は、それぞれ、 微かにではあるが、明確な意図を持って、もつれる。このことは現実と妖精の世界がつながっていること、 つまり、現実と夢は別々のものでなく一つのものであるという作品の根底にある哲学とも一致する。 ささいな、しかし印象的な例は、ボビーの父親が日本にも行ったことがあるという言明だ。 この言明はストーリー内では必ずしも必要ないのだが、サニーベルと視聴者の現実が地続きであることを示している。

人気

子どもたちの間で

『マリーベル』が子どもたちの間で人気があったことは、いくつかの証拠がある。

アニメオタクの評価

基本的に、魔法少女に真に詳しいアニメオタクであれば、必ずマリーベルを高く評価する。 本質的に優れているからである。

しかしながら、一般のオタクの大半にはあまり受け入れられなかった。 これはターゲットを純粋に子どもにしぼって、あえてオタク向き要素を削った以上、当然の結果だ。 しかも、当時は海モモとセーラームーンがあったので、普通のオタクはそちらを見ていた。

商業的問題

大きなお友達の支持がなかったことは(意図的にそうしたのだが)商業的には深刻な結果を生んだ。 VHSで出たのも24話までという中途半端なものだ。 3~8歳くらいの子に人気があることとVHSなどが売れることは、ある程度は重なる部分もあるのだろうが、 やはり別問題なのだろう。

しかし、作品の作り方自体がキャッチーでないことも否定的に働いている。 本作の醍醐味は30~50話の後半にあり、そこへ行くまでは、比較的退屈である。 したがって最初の数話だけ見ても、過小評価されやすい。 本作が非常にゆったりとした構造でそのように作られたという面と、 脚本がうまく行っていないという面と、両方ある。 たいしてオタクの支持もないのに、2004年になって突然DVD版が発売されたのは、 本来のファンであった子どもたちが自分でDVDを買える年齢になったためかもしれない。 中国や韓国でも、オタクでない普通の人が、純真に子ども時代にみてファンになったというケースがかなり多いように思われる。

歴史的背景

わざわざ市場性の低い作品を作ったのはなぜか。 なぜこの時期に「マリーベル」や「ママ4」のような独特の作品が存在できたのか。 1980年代後半から1990年代初めにかけてこの種のアニメが存在しえたことの、 最も合理的な説明は、日本のバブル経済である。 当時、日本は異常なほどリッチであり、太っ腹で潤沢な予算を使えたのだろう。 これは声優陣の豪華さを見ても感じられるし、 パパベルがイギリスのビッグベンを万里の長城の上に移動させるような「めちゃくちゃ」な魔法を使うのも、 それは素朴に楽しい表現として受容するべきなのだが、 背景には、当時のジャパンマネーによる世界のあれこれの買いあさり、その支配力というものが、 潜在的に存在していたかもしれない。 葦プロダクションの4作目の魔法少女アニメ(山モモ、スイートミント、海モモ、マリーベルの順)はまた、 葦プロの最後の少女アニメともなった。 これは部分的には偶然かもしれないが、葦プロの構造変化は、少なくとも間接的にはバブル崩壊と関係していると考えられる。 この部分に関して言うならば、『マリーベル』は日本が最も(少なくとも外形的には)繁栄していたとき、 最も物質的に裕福だったときに作られた果実である。そのあまりにものほほんとした優しい世界、 別に売れなくたっていいという市場性を多少無視したようなアプローチは、そのように説明できる。 しかし逆説的に、そうやってのびのびと売れゆきをあまり気にせずリスクも顧みずに作れたことで、 『マリーベル』は非常に純粋で美しく、他にないような独自の世界となった。

わたしは、ひとつの大胆な仮説を持っている。 もしかすると、マリーベルは、作画の良さはともかく、全体としては、普通の作品でいいという考えで始まったのではないか。 それが30話で「偶然」(あるいは「魔法」によって)作品が変化したのではないか。 オタクは、30話以降の良さは、1話からの積み重ねあってのものだと評価するが、 特にアニメに興味があったわけでもない少女としてこの作品を純真に楽しんだわたし自身の考えでは、 そうではない。35話くらいから偶然見始めて、かなり急激に魅惑されてしまったのだ。逆に言うと、1~35話で何が起きたかと関係なく、 作品を楽しめた。そして最終回では世界が終わるような悲しみを味わった。 もちろん作品自体はハッピーエンドなのだが、マリーベルが終わってしまうことが本当に悲しかった。 ジェーンとマイケルは、メアリーポピンズが去ったあと、こういう気持ちだったのだろう…。

タイラーには何の罪もないが、今でも「無責任艦長タイラー」と聞くと、悲しい気持ちになる。

この作品についてのコメント

幼いキャラクターが無邪気に走り回り、 妖精たちとたわむれ、そして大人たちに暖かく見守られている。 数多あるアニメ作品の中で、今から思い返してみても、 この花の魔法使いマリーベルという作品は異色だったと言えるでしょう。

*

花の魔法使いマリーベルが放映されていた頃は、確か相当数のアニメが作られていた時期だと記憶しています。その後、バブル崩壊以後しばらくはアニメの本数も激減。最近はOVAとのタイアップなどにより徐々に復活の兆しを見せ、今では深夜枠でのアニメや衛星放送の独自アニメなど、当時からすると考えられないほど大量のアニメが作成され、放映されるようになりました。見る人たちの嗜好に的確に追随していくために、作品のライフサイクルも半年程度、短いものだと13話(1クール)構成といったように短くなり、また色塗りこそはセル画的であってもコンピュータを利用したデジタル彩色やCG合成のアニメ作品がかなり増えました。今のアニメ界の現状からすると、『花の魔法使いマリーベル』という作品は、少なくとも今の子供たちにとっては「過去の遺作」とでも言うべき作品となっているのかもしれません。

そんな状況下でもなお、Marybell Memories on WWWを作成しようと思い立ったのは、久しぶりに『花の魔法使いマリーベル』を見て、今のアニメ作品とのあまりのギャップを実感したためでした。最近のアニメ、例えばCCさくらと比較してみると、CCさくらが、見る人を楽しませるエンターテイメント性に主眼が置かれ、そして見事に成功しているのに対して、マリーベルという作品は、どちらかというとサニーベルという『街』を描くことに主眼が置かれ、作品に対して職人気質的なある種のこだわりを感じるのです。

誤解されないよう書きますが、私はCCさくらという作品も非常に好きで、作品の出来の良さという観点では決してマリーベルに劣らない、むしろマリーベルより良く出来ている部分も数多くあると思っています。もともと、CCさくらとマリーベルはそれぞれ目指しているものが大きく違っているので、横並びにしてCCさくらとマリーベルのどちらが優れていると議論しようとしても、それは日本料理とフランス料理のどちらが素晴らしいか、というような、単なる好みの問題にしかならないと思います。私のように「どちらも大好き」という人もかなり多いでしょう。

ただ、この二つの作品に限らず、バブル崩壊以前には比較的職人気質的なこだわりのある作品が多く、個性が非常に強かったこと、一方最近はエンターテイメント性重視の作品が多く、質的にも似通った作品が増えてきたことは、確かなのではないかと思うのです。

実はこのことが、アニメが大量生産され、7年経った今になってもなお、私が『花の魔法使いマリーベル』という作品を忘れずにいられる理由の一つなのではないかと思うのです。皆さんが、『花の魔法使いマリーベル』という作品を思い出すとき、何を思い出すでしょうか? 私は、マリーベルやユーリといった主要なキャラだけでなく、この作品に現れたさまざまなキャラや繰り広げられるストーリー、そして軽快な音楽、引いては「サニーベルの街」を思い出します。ところが最近のアニメ、正確に言えば、花の魔法使いマリーベル終了後から今まで7年間に見て来たアニメでは、このような思い出し方をする作品というのは私には皆無なのです。

まちばりあかね 花の魔法使いマリーベル ~ Marybell Memories on WWW より

【花の魔法使いマリーベル】は伝説の番組として語り継がれています
テレビ東京系列で放映されていたのを見て印象的過ぎる思いのある人もいるでしょう
CS放送を見て、あまりにも強い衝撃を受けた人もいるでしょう!
この可愛くってほのぼのとした番組は以後そう簡単には味わえ無いだろう出来でした

ラグナベル 花の魔法使いマリーベル<夢をあなたに! マリーベル研究所>より

製作はテレビせとうち/ビックウエスト/葦プロダクションによって行われました
この組み合わせの作品には 名作と呼ばれるものが多いです!
又、他製作会社も含め
1990年~1995年は いわゆる『伝説のアニメ』の称号で呼ばれるものが多数あり
各作品それぞれ ものすごいファン達がいます

あしべる(シーラまりーべる) マリーベル研究所第2部(べる研2部)より

DVDーBOX1届いたので、10年ぶりに見たよー!ああ、なんてほんわかアニメ!!

この作品は大きなお友達でなく、子供と一緒に、家族で見て欲しい作品。

私もその日が来たらそうする!(笑)

人生に疲れてる人はこの作品を見て息抜きしましょう!

放送当時、私がそうだったー;

ちょいーんワンダホー ワンダホー掲示板 [328] 花の魔法使いマリーベル2004/3/21より

* 「ちょいーんワンダホー」さん=鋼鉄天使くるみ・作監ほか多数ご活躍のアニメーター

葦プロ魔法少女4作目の、ほのぼのファンタジーアニメ。

そのメルヘンな感じはまさに「花の魔法使い」の名に相応しく、

80年代初めを思い出させるようなその3頭身キャラがかわいらしい。

まさにそのほのぼのなお話は、最近アニメを見出した方には、

ぜひとも1度は見ていただきたい作品であるとおすすめできる。

ストーリーものんびりしていて普通の魔女っ子アニメにあるような、

大きな敵や激しい戦闘などもなく、ただのーんびり日々を暮らすお話であり、

マリーベルが使う「花魔法」もとても心温まるものばかりです、

こういう面を見るとスイートミントに近いものもありますが、

あくまでこの独特の雰囲気はマリーベルでしかありえないものといえるでしょう、

そういった意味でこの作品を「伝説の魔女っ子アニメ」と賞賛する方々もいます。

魔法少女☆ルリー ルリーちゃんの魔法少女大百科事典♪ 第10回・花の魔法使い・マリーベル☆より

徹底して子供向けに作られた「マリーベル」は子供層に受けこそすれ、大人の感覚からすると幼稚すぎて見るに値しないと考えてしまう人もいらっしゃると思います。

しかし、もしあなたが見た目だけでマイナスイメージを抱いているのだとすれば、僭越ながら、それは大きな誤りだと指摘させていただかねばなりません。

この世界には妖精がいる、花は人間の愛情を受けて育つなど、見ているこちらが恥ずかしくなるような事をぬけぬけと作中で言い切り、そして登場人物はケンカをしていた間柄でも最後は手を取り合い、誰一人例外なく前向きに前進していく…。

そんな、ひたすら明るく優しい物語にミュージカル的演出が多用され、両者の融合によって小難しい理屈など吹き飛ばしてしまうくらいの独特の”陽”の魅力が、「マリーベル」には生まれています。

同時期に「海モモ」、「新世紀GPXサイバーフォーミュラ」、「美少女戦士セーラームーン」などの話題作が放送されていたために絶対数が少ないとはいえ、本作の作風に心酔するコアな(それも 恐ろしく熱狂的 な)ファンによって、今でも「マリーベル」は唯一無二の魔女っ子アニメとして支持されています。

*

ともかく、1990年代前半を代表する魔女っ子アニメは何かと問われたら、筆者はこの「マリーベル」を第一位として挙げるでしょう。あの独特の、優しい肌触りは最近のアニメからはなかなか感じられないものです。「マリーベル」は見ているだけで幸せになれる、そんな稀有な作品なのです。

日下兆 魔女っ子アニメ列伝 第23回目 「花の魔法使い マリーベル」(ゴリラ団極東支部)より

瀬戸内テレビが趣味で作ったとしか思えない(?)、女の子向け魔法少女アニメーションのサントラ盤。

*

海モモと平行して制作・放映されていましたが、棲み分けは完全に成功したようですね。モモがアダルトな(?)方向へ突っ走ったのに対して、マリーベルは完全に幼年向けに徹した親しみやすい作品世界を作り出しています。

BGMは、とにかくいっぱい入っています。キャラクターごとにテーマ曲が割り振ってあって、細かい細かい(笑)。曲調もバラけていて、作る方も大変だったんじゃないかと思います。

軽やかで楽しい曲が多いんですが、他のアニメではあまり耳にしないような雰囲気。私は好きです。

あと、主題歌が唐突に中島美智代というのが何とも不思議。現在では数少ない正統派アイドルの彼女を抜擢したのはいったいなぜなのか? やはり関係者のシュミか?(笑)

はすのみもなか! 花の魔法使いマリーベル サウンドトラック マリーベルと歌おう!(tlr)より

上記「主題歌が唐突に中嶋美智代というのが何とも不思議」について、少し解説します。

当時、女の子向けアニメで、アニメとアイドル歌手のプロモーションをミックスさせる手法が一時、相次ぎました。 ぴえろのクリィミーマミから始まったことですが、後続する葦プロ作品「アイドル○○」シリーズでも同じ手法が使われたのです。 マリーベルと同じ「テレビせとうち+ビックウェスト+葦プロ」で作られた(ほぼ)直前の「ようこそようこ」は、 そのような作品であり、マリーベルは、そこからかなり継承している部分があります(葦プロ的には、 厳密に言えば、 本当の直前は「海モモ」ですが、これは直前というよりマリーベルと同時期なので、別問題。 そして「海モモ」を別として、スイートミントの方が直前ですが、 ミントとようこは放送時期が1か月ずれている程度で、ほぼ重なる)。 同じ少女向けで、同じ製作で、前作が特に大失敗でなければ、 むしろまるで違うものを作るのは珍しく、多少共通の要素があるのが当然でしょう。

マリーベルには中嶋美智代のプロモーションの要素がありました。 後期ED「思われている」は歌の発売日に合わせて切り替えられましたし(新曲の宣伝)、 前期ED「思い出にもなれない」が微妙にアニメの内容とミスマッチなのも、そういうわけなのです。 単に関係者の趣味なら、このようにアニメの内容(小学生以下の子どもたちが中心)と合わない曲(高校の卒業式)は選ばず、 もう少し違うものにしたはずです。

中嶋美智代のシングルのジャケットにもマリーベルの絵が描かれたりしました。要するに、両者はタイアップしていたわけです。 「ようこ」では「よっきゅん」が主人公ですが、マリーベルではそこまでやっていないものの、 「ミッチー」として中嶋美智代が作中に登場します。ただし声は中嶋美智代ではありません。 ぴえろ方式と異なり、葦プロ方式では、歌手はOP/EDだけで、アイドル系でも、 アニメ中では主人公はプロの声優さんがやりました。(ぴえろ方式の、 新人のアイドル歌手に声優をやらせるのは無謀)

この中嶋美智代のプロモーションと連動、という事実が目立たないのは、 もうただただひとつ、中嶋美智代の曲がアニメとマッチしていることでしょう。 OPは「元気の魔法」ですし、 前期EDは微妙に合わないものの、50万歳の時を生きるマリーベルが「思い出にもなれない」と言うのは、 妙に切ないし、30話のビビアンストーリーで変わった後期ED、 ドライに言えば新曲の発売日に合わせてというだけなのですが、 あの素晴らしいストーリー、そして、そこで変わったEDが恐ろしいほど作品世界にマッチしている、 「思われている」に切り替えることを前提にそれに合うように脚本家がストーリーを考えたのでしょうが、 見事過ぎて、逆に、アニメに合わせて歌詞を書いたのか?と思ってしまうほどです。 後期EDの「思われている」のシンプルで美しく感動的な内容・歌詞は、マリーベルのファンにとって、 非常に心に残るもののひとつでしょう。

他にも、ようこからマリーベルが継承した可能性のある要素は結構多く、 オペラ的(ミュージカル的)手法がまず間違いなく、 「太陽の陽」と「サニーベル」、 主人公の頭の上にいるムーとタンバリンなど。 マリーベルがタンバリンという楽器的なものを持っていること自体、意識的にか無意識的にか、 ようこ的発想が続いていたとも言えるかもしれません。 そして何より、ようことマリーベルは、キャラデザも作画も違うのに、目元が似てます。 目の色が同じというのもありますが…。 のほほん、とした超楽観的な性格もかなり似た面があります。 やはり生みの親が同じ「テレビせとうち+ビックウェスト+葦プロ」、 無視できない共通性がいろいろとあるようです。 (これは、同じようなものばかり作りやがって、という非難ではありません。どちらも傑作と思いますし、 それを言うなら、ミンキーモモ以来、魔法少女は同じようなものとも言えるわけで。)

まあ魔法使いのぷに幼女が活躍する話という時点でハマることは確定なのですが、それでもこのかわいさは尋常じゃないです。もう「萌え」という言葉で表現できない、してはいけない、というくらい。

まあ萌えという言葉もずいぶん手垢にまみれた感じがしますがそれは置いて。

それ以外にも、今のアニメでは見られないような物がいろいろあります。それに気づかせてもらったというのはかなり大きいですね。

中でも感じたのは、「世界『感』」とでも言うべきでしょうか。昔のアニメには「世界を体感する」というような感じがあったように思えます。

これこそ、今のアニメに欠けているモノだと私は思うのですよ。

1話で開かれた異世界の扉、それは毎週決まった時間に開かれるもの。

その時間にテレビをつければ魅力的な世界がそこにある。

見ている間はナニも考えずにその世界の住人になれる。

世界は1年の間に様々な変化を見せ、そこの住人もいろいろな変化を体験する。

そして最終回、それは世界の完結するとき。

扉が閉じると共に世界は完結、完成し、そこから先は自分たちが知ることはできない。

とまあ少々アレげな文体ではありますが、昔のアニメという物は男の子向け女の子向け関わらずそんな感覚だったように思います。その時間にテレビに向かえば、魅力的な世界が待っている。というような。

なもので、当時は最終回が来るのが思いっきり寂しかったというのを覚えています。なにせ、「世界の終わり」くらいの感覚ですからね。

翻って今のアニメは、深夜なら13話がデフォ。昔1年でやっていたことを3ヶ月でやれなんてそりゃあ無理な話で、世界観を理解しはじめた頃にはもう終わり、さあ次いこかー、ということに。単純計算で世界の密度が1/4になってるわけですよ。

しかもその弊害で、ワクが余るもんだから量が多くなる。ネタがなくてもワクがあるから量は作らなきゃならない。なので勢い似たような話が多くなる。何で個性づけるかというと、キャラやセリフや声優で区別するしかない。これじゃあ「世界」もクソもありません。

そう、だから「最近のアニメは同じようなのばかり!」と思うわけですよ。

藤宮更夜 Clock Y’s - やっぱり10年前かより

キャラクターがかわいい。暖色系の色あいで、見ているだけで暖かい気持ちになれます。 この作品を見てから、こおろぎさとみさんが好きになりました。 かわいい絵のわりには、話の内容が実話に近く、そのギャップがおもしろい。

ヤフオクは楽しい?